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家族に支えられた“やりすぎ”の才能  ― 南方熊楠という生き方

「この人、本当に同じ時代を生きていたのだろうか」そう思ってしまうほど、常識から少しはみ出した生き方をした人物——それが南方熊楠です。


1867年、和歌山に生まれた熊楠は、幼い頃から“普通の子ども”ではありませんでした。本を読めば読むほど新しい疑問が生まれ、気になったことはとことん調べないと気が済まない。しかも一度読んだ内容をそのまま覚えてしまうほどの記憶力を持っていました。


ただ、そんな熊楠を支えたのが「家族の存在」でした。

父は商人で、現実的でしっかりした考え方を持つ人物でした。学問一筋で生きていくことが簡単ではない時代にあって、熊楠の将来を案じる場面も少なくありませんでした。


あるとき、あまりにも本に没頭する熊楠に、父はこう声をかけたといわれています。

「お前は一体、何になるつもりだ」

それに対して熊楠は、少しもひるまず答えます。

「まだ分かりません。でも、知りたいことがたくさんあります」

普通なら叱ってしまいそうな場面です。しかし父は、その言葉を聞いて、完全には否定しませんでした。

「……ならば、とことんやってみろ。ただし、自分の責任でな」

厳しさの中に、確かな信頼がありました。


また母も、熊楠の少し風変わりな行動を温かく見守る存在でした。周囲から「変わっている」と言われても、頭ごなしに否定するのではなく、静かに支え続けたと伝えられています。


そして大きな転機が訪れます。

熊楠が「海外へ行きたい」と言い出したときです。

当時、海外に渡るというのは簡単なことではありません。費用もかかり、将来が保証されるわけでもない。家族にとっては大きな決断でした。


父はしばらく黙って考えたあと、こう言ったといわれています。

「本当に行くのか」

「はい」

「戻ってこられる保証はないぞ」

「それでも、行きたいです」

そのやりとりのあと、父は静かにうなずきました。

「……分かった。行ってこい」

この一言が、熊楠の人生を大きく動かしました。


経済的にも決して余裕があるわけではない中で、それでも「この子の可能性を信じる」という決断。送り出す側にとっても、大きな覚悟が必要だったはずです。


海外で思うようにいかない時期も、帰国後に研究に没頭する日々も、熊楠の歩みの裏には、常に家族の理解と支えがありました。


やがて成長した熊楠は、海外へと渡ります。当時としては非常に珍しく、まずアメリカへ、そしてイギリスへ。世界の知識に触れられる絶好のチャンスでした。

……が、ここで彼はまた“普通”から外れます。


大学に入学するものの、その枠には収まりきれず、やがて中退。多くの人が安定した道を選ぶ中で、熊楠は「自分の学びたい形」を優先しました。


その代わりに彼が選んだ場所が、ロンドンの大英博物館です。

ここでの熊楠は、もはや“人間図書館”のような存在でした。朝から晩まで本を読み続け、気になった内容をひたすら書き出す。ジャンルは問いません。生物学、宗教、歴史、民俗、言語……とにかく面白いと思ったものはすべて吸収する。

そして、それをただ覚えるのではなく、「つなげる」ことをしていました。

「あの話と、この話は関係があるのではないか」「この文化と、この生き物はどう結びつくのか」

そんなふうに、知識同士を結びつけながら、自分だけの世界を作り上げていったのです。


ただし、この圧倒的な集中力は、ときに周囲との衝突も生みました。

議論になれば一歩も引かない。納得できなければとことん主張する。結果としてトラブルになることもあり、決して“生きやすいタイプ”ではなかったと言えるでしょう。

それでも彼は、学びをやめませんでした。


帰国後、熊楠は和歌山に戻り、研究生活を続けます。そしてここで彼が選んだテーマが、あの「粘菌」です。


正直に言えば、かなり地味です。ほとんどの人が気にも留めない存在です。

でも熊楠は違いました。

「こんな小さなものにも、必ず面白い仕組みがある」

そう考え、山へ入り、観察を繰り返します。雨の日も、暑い日も、とにかく現場へ。しかも夢中になると時間の感覚がなくなり、気づけば何時間も山の中。

服装は気にしない。周りの目も気にしない。ただ「知りたい」という気持ちだけで動いていました。


その結果、彼の粘菌研究は世界的に評価されるようになります。

さらに熊楠のすごいところは、「知識だけで終わらない」ところです。

神社の合祀によって自然が失われていくことに危機感を持ち、「それはおかしい」と声を上げ、実際に行動しました。学者でありながら、社会にも働きかけたのです。

そして、家庭ではまた違った一面を見せます。


娘に対してはとても優しく、自然の中を一緒に歩きながら、「どうしてこうなると思う?」と問いかけるように話をしていました。ただ知識を教えるのではなく、「考える楽しさ」を伝えようとしていたのです。忙しい研究の合間でも、家族との時間を大切にしようとする姿がありました。


晩年になっても、その姿勢は変わりませんでした。

研究を続け、記録を残し、考え続ける。そして1941年、和歌山でその生涯を終えます。

最期まで、「知りたい」をやめなかった人でした。


ここまで読んでみると、あることに気づきます。

熊楠は、決して器用な生き方をしたわけではありません。むしろ遠回りも多く、人とぶつかることもありました。

でもその分、「深さ」が違いました。


・気になったら、とことん調べる

・読んだら、必ず書く

・分からなければ、考え続ける

・納得するまで、やめない


この積み重ねが、誰にも真似できない力になったのです。

勉強も同じです。


要領の良さよりも、「どこまでやるか」。その差が、あとで大きな差になります。

そしてもう一つ。その挑戦を支える「環境」や「周りの存在」も、決して小さくありません。


南方熊楠のように、少しやりすぎるくらいでちょうどいい。むしろ、そのくらいのほうが“気づいたら勝っている人”になっているのかもしれません。


この物語が、これからの一歩のヒントになれば嬉しいです。


 
 
 

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